2014年12月12日掲載

鉄舟と露伴(6|10)
二人の死に方

—鉄舟の場合—

 鉄舟は明治21年7月19日に53歳で亡くなっています。胃癌でした。

 17日から容態の変化がありました。夕方に湯浴みをし白衣を着て、皇居に向かって一礼して床につきます。

 翌日、午前1時に胃穿孔を起こし危篤になります。

 しかし午前8時に、門人に剣術の稽古を命じ、夫人にも琴の稽古を命じ、自ら道場で組太刀をしています。

 午後1時に写経します。この夜に名人といわれ、座禅の弟子の三遊亭円朝に落語を語らせています。

 19日の明け方に夜具にもたれて「腹張りて 苦しき中に 明烏」と詠っています。

 午前9時に人払いを頼み、皇居に向かって座禅を組み、そのまま永眠しました。弔問客は座禅のままの鉄舟を見て驚きます。この姿を多くの人人に見せようとしましたが、夏なので20日の夜に入棺しています。

 22日の午後1時に四谷仲町を出発し、皇居前を過ぎる時間に10分間、棺を止めました。明治天皇が高殿から別れを求められたからです。午後3時に谷中全生庵に到着し葬儀をおこないました。

 当日は雨でしたが、約5千人の会葬者がありました。殉死しようとした人、全生庵で3年間、墓守をした人などがいて、鉄舟の人徳が偲ばれます。

 鉄舟は書道が得意で困った人に書いてあげて、お金にするようにすすめています。身近にはあんパンの「木村屋」の看板文字がそうです。

 明治天皇から庶民経済まで巾広い交流のあった人でした。

2014年12月11日 記