2014年11月7日掲載

鉄舟と露伴(3|10)
露伴と鉄舟の叙勲

—小気味よいへそ曲がり—

 幸田露伴は昭和12年から始まった第1回文化勲章の受章を受けたのですが、「国家に好遇されるよりも虐待されるところにすぐれたものがある」と言っています。

 明治維新になり徳川幕府で禄をいただいていた幸田家の意地の発現でしょう。

 昭和20年の敗戦から、わが国は二度目の国民変心(私の勝手な決めつけ)がありました。

 一度目は明治維新。徳川体制を絶対の古さとして唾棄し、討幕の鞍馬天狗、人斬集団の頭領・近藤勇の図式を確定しました。二度目は第二次世界大戦の後の新体制への無批判な賛同です。この国民変心によって国民の時代評価は固まってしまったのです。

 新は善で有価値、旧は悪で無価値という単純な決めつけです。今でもこの風潮は続いています。

—露伴と鉄舟の態度—

 この国民変心から文学界も例外ではありませんでした。戦後、太宰治、坂口安吾といった新人作家、無頼派といわれた新興芸術派がもてはやされました。

 そのなかでの先の露伴のことばは、上辺ではない文化のあり様を大切にする旨を唱え、世間に心地よい皮肉をはなっているのです。

 鉄舟は徳川慶喜の使いで西郷隆盛が江戸に攻めあがってくる途中に迫って、条件提示をして江戸で闘いを起こさずに明け渡す努力をしました。それが江戸城の明け渡しなどの五箇条です。結果として西郷隆盛と勝海舟の会話でまとまるのですが、肝腎な交渉は山岡、西郷会談で終わっていたのです。明治維新から政府も安定した明治14年になって、維新の功績者に論功を施す調査を開始しました。

 旧幕臣でいながら明治天皇の側で侍従を務めていた鉄舟にも調査がありましたが、当初断っていました。最後は賞勲局の求めに応じます。

 そこには勝海舟の調書がありましたが、鉄舟の名前はありませんでした。そのことを問われると、「この通りです。」といって、鉄舟の功績を問う係員に「幕臣としてやるべきことをやったまで」と答えて自分を語っていません。

 明治天皇の侍従を明治15年に辞めて、しばらくして井上馨参議から勲章がもたらされました。明治天皇からのものですので、一度は受け取ります。そしてすぐに「井上さん、これは返上する」と言って、持ち帰らせます。

 その時に鉄舟はこう言い放ちます。「勲章とはいうものの、その実はお前さんらが勝手に決めたものだ。維新の大業にとってお前さんらは下っ端じゃあねえか。」

 明治21年、53歳で没しますが、その時に勲二等が送られています。

2014年11月4日 記