『努力論』こぼれ話

『努力論』は10月刊行 ―10年間の結実―

 ベンジャミン・フランクリンを御存知ですか。あの凧をあげて避雷針を発明したアメリカ人です。彼はイギリス生まれの父親が移住してきたボストンで、1706年に生まれました。そして、84才で亡くなるまでのことを『フランクリン自伝』で書いています。

 私は彼から生活態度を習慣化することを学びました。

 中学時代に自伝を読みました。英邦対訳です。13の徳目すなわち、節制、沈黙、規律、決断などを単文で表しています。フランクリンの偉いのはただ書くだけでなく、一徳目を一週間続けて4回繰り返すとちょうど一年になります。徳目を掲げるだけではなく、それを実行したその根気強さ、忍耐の固さに魅了されて私も真似をしてみました。私の工夫は徳目を紙に書いて柱に貼って、朝、10回声に出して唱え、夜寝る前に唱え感謝することです。これを半年間続けてみて、暗誦しそれに従うこともできるようになったのです。現代では自分に言い聞かせる、唱和は封建的、強圧的と見る人がいるかもしれません。どう見られるかを気にせずに、自分の人生をどう生きるか、ということを考えますと効果のある方法と思います。

 掛け算の九九の暗唱と同じで身につければ、一生ものとなります。このようなフランクリンの徳目の上に幸田露伴の『努力論』を重ねようというのが全訳して紹介した理由です。夏休みです図書館に行ってぜひ『フランクリン自伝』をパラ、パラと見てください。

以上、2012年8月8日 記

こぼれ話2

 『努力論』はちょうど100年前に書かれています。1924年、明治45年です。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」に見られる、国の勃興期の鹿鳴館、大正デモクラシー前夜の文芸復興などの時代、そして、いつの時代にもある乗り遅れた人々の存在。

 そんな中で本書はベストセラーだったといわれています。

 幸田露伴の家は江戸城の坊主衆の出ということですから、はっきりと幕府側のそれも心位の高い家でした。ですから努力論の中でも人名は別にしてカタカナを用いている個所は5個所ぐらいです。漢文調の四文字熟語が頻出し、それも諸橋博士の「大漢和辞典」にも載っていないものが出てきます。

 幸田の自作熟語もあります。これを調べることも愉快でした。出版にあたって書きましたが、口述筆記が下敷になっているふしもあります。文学者でない私の推論は幸田学者にとっては破天荒かもしれません。

 手で書いていればありえない繰り返しが多いからです。また『五重塔』などと比べての筆勢も違います。

 もとより随筆風の『努力論』と小説は違うとは思いますが。これは専門家の検討を待ちましょう。私の問題提起です。明治期の文学者はまだ少なくて、いわゆる「紅露逍鴎」の時代です。

 江戸文学から近代文学への過渡期でした。紅葉、露伴、逍遥、鴎外が口語調を作品にしはじめました。

以上、2012年8月27日 記

こぼれ話3

 「じゃあ、俺はもう死んじゃうよ」というのが露伴の最後のことばです。

 見取った娘の幸田文が書いています。

 露伴はおもしろい作家で、いろいろと言われます。晩年は文学界からも忘れられた存在で、何の力もなかった、というものもあります。東京を書いている「一国の首都」では自覚、自覚と強調しています。

 人間変革を書いた『努力論』でも自分の決断を言っています。

 自分すなわち個人の生き方は、個人で決める、という姿勢です。欧州と違う個人主義です。

 死の床で了解をとることもないのですが、文に同意を求める露伴。

 覚めている人間。乾燥している人間。という気がします。ルース・ベネディクトの「菊と刀」と通じます。

 努力も自分、死ぬ時も自分の死を客観視している露伴。そんな露伴が人に同情も合意も期待せずに生ききりました。

 文の書き残したものからは、頑迷な老人があります。しかし、世に同調して生きずに、世を批判する立場を変えずにいた露伴は孤高・孤独ですが、納得した一生でした。

 昭和は22年没。81才。

以上、2012年9月1日 記