2015年11月15日掲載

光派私説3

学芸員 和田宗春

 日本人に限らず“縁起を担ぐ”ということはどこの民族でもあります。欧米ではジンクスといったものもあります。

 わが国でも“朝茶はその日の難逃れ”などから始まって数に限りがありません。呪縛、文化は数万年の人類の自然崇拝から今日まで続いています。

 テレビ、新聞の「今日の運勢」欄がいつまでもあることも、現代社会の皮肉です。

 さて、光悦が鷹峯を家康から頂いた件です。聖徳太子の法隆寺の夢殿を含む再建、菅原道真の天満神社、平将門の神田明神など事情は異なっても怨念を残して非業の死を遂げている人間を祀っています。

 当時の人は、これは本人たちの人徳、同情などとともに、その死後に飢饉など、社会的な異変が起こっていて、その原因が彼らのこの世に残した浮かばれない残念と考えます。

 そこで寺社が建てられます。中大兄皇子が殺された聖徳太子父子の怨念を鎮めるために法隆寺を再建したという哲学者、梅原猛の説などは有名です。

 さて徳川家康の周囲にも怨念にまつわる話があります。まず家康の先輩である秀吉と利休。利休を切腹させています。家康は武士で茶人の古田織部を切腹させています。その古田織部と本阿弥光悦は茶の師弟です。

 武士が武士と闘って征伐されることは習いです。

 しかし世の大平を象徴する文化人の利休、織部を後世にも歴然としない争いで切腹させたことに家康は、ひっかかるものがあったのではないか、それを解消するために、また、豊臣政権の早期崩壊やそれ以前の歴史上の心配りから学んで鷹峯を光悦に下賜したのではないか、と私は推理、推察しています。それは家康の江戸幕府の町づくりにも風水が使われていて、僧天海を優遇し、教導を受けていることからも類推できます。

 鷹峯問題、飛躍しすぎでしょうか。

2015年11月12日 記