2015年12月18日掲載

光派私説9

学芸員 和田宗春

 仏教には正法—像法—末法という教えの変遷が考えられています。その末法とは教えが乱れる時代です。平安時代からこの末法思想は始まり、真言宗、天台宗などの出現に関係します。そして鎌倉時代には最高潮となり、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗、時宗などが不安を抱える庶民に布教します。

 本阿弥家もこの大波の中にありました。

 京都にあっても町衆の二極化が進み、上層の茶屋四郎次郎、角倉素庵といった国内外の流通で富を蓄えた者、加茂川などの河原で生活する下層町衆に分かれます。この下層町衆に時宗は流行ります。本阿弥家もそうでした。しかし足利義教将軍の時に、本阿弥清信は獄舎につながり、獄中で日蓮宗の日親上人と仲良くなり日蓮宗に帰依するようになったといいます。

 そして日蓮宗の人人と一緒に鷹峯の芸術村を作るようになります。

 『本阿弥行状記』に書かれている勧善懲悪の激しい主張は、日蓮宗の激しさがうかがい知れます。

 たとえば光悦の母、妙秀は光悦の弟、光知が妻に冷たいという理由で勘当してしまいます。

 また光悦自身も決して媚びることをしない、といっています。

 宗教によって家系を位置づけて、浮き沈みのある時代の智恵として、本阿弥家は、頑なに家業の刀剣に関わることを守り続けてきました。

 そのような『行状記』を訳していますと、伝統をつなげてくる旧家の凄味を感じます。

2015年12月17日 記