2015年11月25日掲載

光派私説5

学芸員 和田宗春

 光悦を調べていくと、地方の個性がわかります。

 たとえば島根県、青森県といわず、その地方で川に橋を架けたり、崖を切り拓いたりした人が昔いて、その人人の名前がついているなどということはどこにでもあります。

 個人の篤志家が私財を投げ出して公共事業をしてくれている話です。東京にいるだけでは、地方の歴史や風土はわかりません。その意味でも都市集中は、地方の伝統や歴史を消去させていきます。京都にも光悦を生みだす歴史がありました。

 応仁の乱によって、政治に距離を置かざるを得なくなります。武士政権の傀儡となります。力を失った京都朝廷は荒れて雨漏りはする、知行すなわち税金も入らず困窮します。

 警護もなく、もし天皇を殺そうとしようとすれば簡単に遂行できる無用心さでした。それでも天皇に危害を加えなかった日本人の精神性を司馬遼太郎は書いています。

 そのような戦乱の時には、生きのびる知恵を誰でも働かせます。この頃の京都人は政権に従うように上辺を取り繕っても、蔭では匿名で皮肉を街中に書き記すことなどをしています。

 建武2年(1335)の「二条河原落書」です。

 「此頃都ニハヤル物 夜討強盗謀綸旨・・・」と長長と続く批判です。

 これを書いた「民衆」が登場してきたのです。被支配者にとどまらず批判から行動につながる自分を知り始めた京都の民衆の誕生と膨張について次回は書きます。

2015年11月22日 記