2015年12月3日掲載

光派私説7

学芸員 和田宗春

 これまでに京戸—京童を書いてきました。京戸は大宝律令で規定した家を指し、その地域を左京、右京と二分しています。京戸は「きょうと」と今風に京都と発音していたか、その源となる「きょうこ」であったと思われます。左京区、右京区としていまに残っています。家や地域から町衆の人に発展してきます。家、地域に束縛される封建制を残しつつ新しく集団を組み始めます。

 米や農作物を生産しないで所有者の定まらない河原で生活して、踊り、戯れ歌などで生きる人人、中国などとの貿易で富を得る人などです。この二つの流れはどちらも大地と切り離された生活をし始めます。

 前者は歌舞伎、田楽、お茶、踊り、工芸、美術などを得意にし、生計を営むものが出てきます。後者からは角倉了以など貿易で財を作る経営者も出てきます。町衆はこの二つに別れて力をつけ始めます。

 先に書きましたが建前としての京都朝廷の権力なき威信と実効支配の武士との権力構成にあって、それぞれが弱体と混乱に襲われる朝廷が二分した南北朝時代から応仁の乱、織豊政権まで町衆は知恵を生かして逞しく生活しています。統治、支配に血道をあげている朝廷、武士のエネルギーとは異質の力です。

 背景には大地に縛られない気ままさ、知恵、才能などがありました。それは不安と背中合わせではありましたが、人の個性が活躍する流動性を手に入れることができるのです。町衆は農村の農民とは違う姿で土地を持たない人間集団の姿として京都に登場してきます。1603年、江戸幕府が置かれる江戸は、この頃、1500年代は原野、葦原でした。

 町の個性には時代背景があります。

 次回は本阿弥光悦の出自について探ります。

2015年11月29日 記