2023年7月11日掲載

剣道と44年の付き合い

【14】段の意味、三島由紀夫曰く「どんな文学賞よりうれしい」

 上位の段を得るために剣道を続けている、と大声で言う人はいない。はしたないという自制心が働くからかもしれない。しかし、多くの人は段のためにと本心では思っている。

 自分の努力の結果を、客観的に評価してもらうことは何の習い事でもある。自分の期待する結果が出れば、何も言うことはない。しかし、意に反した時は、面が当たったのに、さらに小手が当たったのにと審査委員の判断に愚痴を言う。または、あんな面を打たれてしまった、普段はそんなことはないのに、と自分を責める。誰のせいにもできないから、悶々とする。これを何回となく、十年、二十年となく繰り返すと、性格まで変わる。何人かの人は国審査の七段を諦めて、剣道も止めてしまった。冗談ではあるがこんなことを言う人もいた。これまで二十回以上落ちた、受審料で三十万円も全剣連に払った、そのうえ地方に行く新幹線の交通費を入れたら、大変な金額になる。落ちた回数がある回を超えたら、受審になにか便宜が与えられないのか、という本音の要望である。

三島由紀夫の歓びよう

 三島由紀夫はボディビル、空手など体の改良に懸命だった。人に筋肉の厚みを自慢していたという。体格に劣等感があったのであろう。ある時から警察署の剣道場で剣道を始めた。

 熱心な稽古ぶりで五段を取った。その時に、「今まで頂いた、どの文学賞よりも剣道五段が嬉しい」と言った。人の価値観はそれぞれである。だがノーベル文学賞の期待も高かった三島由紀夫をして剣道五段の歓びは、未体験で興奮させるものがあったのだろう。希望する段に受からない人の誰にもぶつけられない不満も、受かった人の態度が大きくなったという声も、受審制度の持っている永遠に解けない設問である。受かる人がいて、落ちる人がいる。自分に置き換えて、こだわりを超えた人間であるかどうか、反省材料にしたい。

 全剣連は「剣道は人間形成の道」と言っている。受かっても人間形成の出来ていない人もいる。受からなくても、温かい人情家の人もいる。段に動かされる人間ではなく、剣道を通して、世の中に寄与できる人間になりたい。三島由紀夫は三島由紀夫、私は私である。

2023年5月 記