2023年4月18日掲載

剣道と44年の付き合い

【7】剣道と言葉づかい

 剣道をどう規定するかは、色々な剣士が感想を言っている。例えば先に出た岡憲次郎は「剣道とは、自分の命を取ろうと思ってくる相手を目の前にして方便に従い、仮に勝負を試み、今の此処の精一杯の自己を瞬間に自己創造することである」という。この考えには長い間、高体連で師事した湯野正憲範士八段の影響が色濃くある。

 方便とは竹刀をもって仮の殺し合いをすることである。生きるために全力を尽くす、ということである。そして、それは究極のところ、自分に帰る、ということである。剣道の精神性、哲学的な存在がここにある。岡範士の言う通り、命がけで殺しに来るわけであるから、命には礼節をもって向き合わなければならない。その剣道を指導する時に、指導者はどんな言葉づかいをしているだろう。

おいコラッの精神

 かつて剣道は侍の修行する忠孝の儒教に基くもので、上下階級のある忍耐の機会を提供するものであった。その残滓が寒い時の寒稽古、暑い時の暑中稽古である。ひび・あかぎれや暑気をものともしない稽古に現れている。ひたすら耐えることや、我慢に慣れることである。それは先輩、指導者に対する服従を意味する。従って剣道の学び方も、盗め、真似ろ、黙ってやれというだけである。一方的な支持、指導である。そこには疑問、確かめに対する問答はない。上意下達の一方通行である。ここには岡の言う自己創造などは、垣間見られない。極端に言えば封建時代のやり方である。明治、大正時代の警邏・警官の職務質問の誰何(すいか)と同じである。

今も残る力の指導を変える

 武道の剣道、柔道などは心も体も追い込んでいく個人競技である。それだけに勝敗はすべて自分である。自分を責めたりすることは日常である。さらに学校、職場の団体戦となると校名が出てきて伝統、地域の圧力がかかる。それに応えたり、沿おうとすると感情が出てきて萎縮したり恐怖を感じたりする。罵声、蔑みなどで痛めつける。努力や緩やかな進行を待っていられなくなる。そこで手を出したり、足が出たりする。言葉によって理解させる時間を省いて、自分が理解させられない苛立ちを相手にぶつけた力の暴力である。もともと武道は体を使った相対運動であるから、結論を急ぐあまり解説、説明を省略して命令口調となりがちである。そして2・26事件の将校のように問答無用とばかりに振舞う。

理解させる言葉の大切さ

 それには言葉づかいの命令形をやめ、誘導型にする。「…やれ」といわずに、丁寧語の「…したら」、「…しましょう」とする。剣道は、基は命のやり取りである闘いを方便として竹刀を使った自己創造であるからこそ、英語で言えば、「レット、アス…」である。これで剣道の雰囲気は大きく変わる。自分たちの会の事だが、私たちの会では2年間、教育剣道と言って、この言葉づかいを実践して、誰もが相互に剣道の会話はもちろん、色々な話をするようになった。剣道の民主化は言葉づかいからである。

2023年4月15日 記